FC2カウンター おっさんの独り言
プロフィール

Author:ミスタースズキ
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

Powered By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ

おっさんの独り言
プロ野球交流戦 阪神VS日本ハム
 昨日(5月16日)からはじまったプロ野球セ・パ交流戦の阪神対日本ハム戦を見た。たまたま神戸に出張中で甲子園にも近かったので行ってみた。阪神電鉄の御影駅から電車に乗って20分ほどで甲子園球場に着いた。1時間も2時間もかけて見に行くわけではなく気軽に行くことができた。
阪神旗 入場券
 8年目となる交流戦は選手もファンも楽しみにしているようだ。甲子園には春・夏の高校野球を見に行ったことがあり全く知らない場所ではない。甲子園駅に着いたときにはまだ試合がはじまっていなかったが、内野のアルプス席の入場券を買っている間に試合が始まった。はじまってすぐに大きな歓声?どよめき?が聞こえた。
先頭打者ホームランのスコアボード 日本ハム攻撃中
 球場に入りスコアボードを見ると1回の表の日ハムの攻撃中なのにスコアボードには「1」が表示されていた。後でわかったことであるが日ハムの1番レフトの糸井が先頭打者ホームランを放ったようだ。日ハム打線は元気がよくどこからでも点が取れそうな勢いであった。
日本ハム応援団 阪神応援団
 それに引き換え阪神打線は日ハムの好投手吉川のピッチングに翻弄されて手も足も出ない。5回までノーヒットに抑えられてやっと6回に3番マートンのバットで1点を返すのがやっとであった。
阪神 金本外野手 日本ハム 中田外野手
 私は阪神の煩い応援が嫌で3塁側のアルプス席に座ったのに前も後ろも横も全て阪神ファンである。甲子園球場全体が阪神ファンで埋め尽くされている。日ハム応援団はレフトの後ろの上段にわずかばかりの応援団がラッパを中心に声を張り上げている。しかし、圧倒的に多数の阪神ファンの前ではいるのかいないのか分からない存在である。
阪神マスコット 1 阪神マスコット 2
 関西のおばさんの煩さは全国的に有名である。それに劣らず「おしゃべりおじさん・お兄さん」も健在だ。私の後ろで見ていたカップルの男が「あいつは打てない」「次は外角のカーブや」などなど試合が始まってから私が帰るまで延々と彼女に解説している。私もうんざりしたが、彼女も最後の方は返事もしなくなった。
7回風船飛ばし 1 7回風船飛ばし 2 風船の残骸
 少し暖かくなってナイター観戦の楽しみはビールを片手にノンビリ見れることだ。ビールだけでは味気ないので、売店に行ってジャンボ焼き鳥をつまみに観戦だ。生ビール一杯「600円」ジャンボ焼き鳥1本「350円」ビール2杯と焼き鳥2本で2千円弱、入場料と交通費を合わせて5千円でプロ野球観戦が出来た。出張でこなければ見らないものである。これも役得と言うのだろうか?

飛行機に乗って台湾へ行ったの巻 その1
 私は10年間有効なパスポートを持っている。持っているだけで1回も使ったことがない。時間とお金を掛けて取ったパスポートを使ってみようと海外旅行を企てた。どこに行くというあてもなく、どこかへ行きたいという場所も思いつかない。ましてや、先立つお金が全くない。そんな時に一緒にパスポートを取ったカミさんが「台湾は近いし食べるものが美味いんだって」とツアーのパンフレットをどこからか見つけてきた。
ANAで台湾へ 入管ロビーへ 
 ツアーに申し込むにはお金が必要だ。僅かばかりの小遣いから出せと言われても毎月やりくりに追われている我が財布は首を縦にも横にも振らない。カミさんが目を付けたのは私が半年に1回貰う会社からの「交通費」だ。私の通勤用の交通費を海外旅行の足代にしようとするものである。海外旅行に行ったはいいが帰ってきてからどうやって会社に行くんだろうか。
入管手続き(この写真を撮って怒られた) 松山駅(気温25度)
 私は台湾に行くにあたってカミさんに2つの注文を付けた。一つは飛び立つ飛行場は「羽田」でなければならない。不便な成田には行きたくない。もう一つは私が台湾で使う金は「1万円」のみ。1万円は私が夕食に飲む「酒代」である。それ以外は全てカミさん持ちであること。その条件を受けなければ台湾には行かない。
台湾鉄道指定券 特急列車
羽田からANAで台湾・松山空港へ飛び立った。外国に入国するためには入国カードと税関の申告用紙を書いて出さなければならない。旅行会社では事前に書いてあげますよ、と親切に言ってくれたがお金を取るよとのこと。ガイドブックを見ると難しいことを書くわけではないので自分で書いて出した。
太魯閣(タロコ)落石注意 太魯閣(タロコ)民族衣装 太魯閣(タロコ)ヘルメットを被った観光客
入国審査場で係員の写真を撮ったら怒られてしまった(当然だ、こんなところで写真を取ろうと思うのは私だけだろう)。入国手続きを無事に終えてバスで松山駅に向かった。四国の松山ではない。台湾は第二次大戦の終戦まで日本が統治していた。戦争中も若者を戦争に狩り出したり、韓国の婦人を慰安婦にしたようなことをしなかったようで親日的である。台湾の新幹線も日本製であり、乗用車やバスもバイクもほとんどが日本製である。
太魯閣(タロコ)風景 1 太魯閣(タロコ)風景 2 太魯閣(タロコ)風景 3
 台湾の特急列車に揺られて松山から花蓮へ向かった。花蓮までは2時間ほどの旅である。翌日最初の観光地「太魯閣(タロコ)」見学である。太魯閣は国家公園で指定範囲が南北38㎞東西41㎞総面積9万2千ヘクタールの巨大な渓谷公園である。太魯閣は険しい渓谷となっている山岳地帯で人を寄せ付けず長い間原住民しか足を踏み入れてなかった。山岳地帯には原住民が住み台湾で2番目に多いタイヤル族(泰雅族)も、この地域一帯に住んでいた。タイヤル族は部族の象徴として男女とも顔に入れ墨をしていた。入れ墨は男性は武勇の証、女性は機織りが上手なことを示していた。

水戸 千波湖の桜並木と鳥たち
 水戸は徳川御三家の一つで最後の将軍となった「徳川慶喜」は水戸藩の江戸屋敷で誕生している。「葵」の印籠を持って全国を行脚した黄門様は水戸藩2代目の藩主である。水戸駅前を流れる桜川を遡ると偕楽園の手前に千波湖がある。千波湖は水戸城を築城するときに那珂川と一緒に防御線の役割を持っていた。その後千波湖の水を灌漑用水と利用して開拓が行われたりした。
千波湖の桜並木 1 千波湖の桜並木 2 千波湖の桜並木 3
 千波湖は朝早くから賑わっている。周囲3kmの湖畔は格好のジョギングコースだったり、散歩道でもある。私も水戸の駅前のホテルから朝の散歩は桜川の土手と千波湖を一周するのが日課である。
千波湖の桜 1 千波湖の桜 2 千波湖の桜 3
 東京で桜が散った翌週に水戸に行ったがこちらは桜が満開であった。桜川の土手には提灯が吊るされていて満開の桜を明るく照らしている。部活の帰りの男子高校生が自転車を押して歩いている。その脇には可愛い女子高生が楽しそうに付いている。
コクチョウの眠り ハクチョウの眠り
 千波湖の白鳥(コブハクチョウ)は親善都市の滋賀県彦根市から昭和45年と47年に一番(ひとつがい)づつ贈られたのが、千波湖で最初に白鳥を飼育することになった始まりである。黒鳥(コクチョウ)は昭和53年に山口県宇部市から一番が起こられたことが最初である。
千波湖の桜ライトアップ 1 千波湖の桜ライトアップ 2 千波湖の桜ライトアップ 3
 千波湖の桜はライトアップされて幻想的である。幻想的ではあるが、肌寒い日でジョギングをしている人たちはいたがシートを敷いて酒盛りをする人たちは全くいなかった。湖畔にいたのは抱卵しているコクチョウやハクチョウの番だけであった。
ハクチョウの潜り カモの潜り
 朝の散歩をしていると桜川や千波湖ではカモやハクチョウたちが朝食に余念がない。ハクチョウは長い首を水の中に入れて魚を取っているし、首の短いカモは後ろ足を上げてまるで逆立ちをしているようなものである。
ハクチョウの満足 カモの満足
 そんなカモやハクチョウを見ながら散歩をしていると後ろから「ゼイゼイ ハアーハアー」言いながら追い抜いていく市民ランナーがいる。早い人は私が千波湖を一周する間に3回は追い越していく。朝からこんなに張り切って走ってどうするのだろうと思うが、本人にしてみれば毎日の日課をこなしているだけなのかもしれない。

大崎目黒川の花見クルーズ
 ついこの間まで寒い寒いと言っていたのがうそのように暖かくなったと思ったら桜が咲き出した。例年より少し遅れて咲き出した桜は今が見どころ満開である。私が子供の頃は入学式の頃が桜の満開で、満開の桜の下で記念写真を撮るのが一般的であった。それが温暖化の影響で入学式の前に桜が散ってしまうのが当たり前になっていた。それが今年は桜の満開と入学式が重なって今年入学式を迎えた小学一年生も社会人一年生も思い出に残る桜になったのではないだろうか。
ようこそ目黒川へ またのお越しを!
 私が勤める会社は昨年の7月まで世田谷の池尻大橋にあった。池尻大橋から引っ越してきたところが「品川区大崎」である。池尻大橋にいたときも「目黒川」の近くだったので桜の咲くころは昼休みなど花見に行っていた。引っ越してきた大崎でも会社の裏が目黒川で、どこへ行っても目黒川がついてくると不思議な気持ちである。
花見クルーズ 1 花見クルーズ 2
 目黒川は池尻大橋を出発点に世田谷・目黒・品川と流れて東京湾へと注いでいる。河口近くにある大崎の目黒川には桜の咲く頃になると観光船がやってくる。大きな何百人も乗る船ではなく2~30人が乗る小型の船である。季節限定の「花見クルーズ」を楽しむ人たちが川を上ってくる。
花見クルーズ 3 花見クルーズ 4
 花見クルーズは天王洲アイル辺りの桟橋からやってくる。小型でも豪華な船では1人5千円ほどかかるようであるが、昼休みに見る小型の花見クルーズの船は1人2千円ほどである。1時間ほどのクルーズであるが川の両側を歩いて見ているのではなく、川の中から両側に咲いた桜を眺めたり、川面に落ちた花びらを眺めたりと地上から見るのとは違う趣を感じているのだろう。
目黒川桜 ちょうちん 1 目黒川桜 ちょうちん 2 目黒川桜 両側の桜 1
 池尻大橋から河口までの目黒川にはおよそ800本のソメイヨシノが春を彩っていると言う。会社の裏の目黒川にはお弁当を広げているおねえさん達やひとりでベンチに座ってパンをかじっているお兄さんなど、ついこの間まで閑散としていたベンチが賑わっている。それもこれも桜が綺麗に咲いているので暖かい陽気に誘われて顔を出している。
目黒川桜 両側の桜 2 目黒川桜 1 目黒川桜 2
 目黒川の両側は車道になっているところもあるが車の往来は比較的少ない。そんな車道の片隅で花見をしているグループがある。しかし大半は会社帰りのサラリーマンが2・3人連れて歩いていたり、犬を連れた近所の住人だったりと桜の咲いていないときと比べると地方のお祭り並みの人通りである。

静岡 東海道
 駿府城は徳川家康が晩年居城としたところである。その地に徳川幕府の幕引きをした徳川慶喜が大政奉還した後に住んだところでもある。江戸幕府を作った人と終わらせた人がともに住んだ町が静岡である。
 現在の東海道(左側が駿府城) 府中宿
 静岡の地名は藩校の今で言う校長先生が名付け親である。明治2年廃藩置県を前にこれまで呼ばれていた「駿府」や「府中」と言われていた地名の改称する議論が藩庁で行われた。ちょんまげを結んだ重臣たちは賤機山にちなんで「賤ケ丘」にしようと決まった。しかし、藩学校の頭取の向山黄村が時世を思い土地柄を考えて「静ケ丘即ち静岡」と提案して決まり、明治2年6月20日「駿州府中静岡」と改めると町触れが達せられたて「静岡」が誕生した。
 上下伝馬町 花陽院門前町 鋳物師町
 静岡の伝馬町は慶長14年(1609)に徳川家康が駿府を町割りして東海道53次の宿場と定めたことに始まる。宿には本陣・脇本陣などが置かれ旅館や商家が軒を連ね大名行列や旅人で賑わった。花陽院門前町の町名の由来は松平竹千代(後の徳川家康)が今川氏の人質時代に勉学に通った寺(玉桂山華陽院)から取ったものである。華陽院は元々智源院と呼ばれていたが、駿府で竹千代の養育にあたった外祖母源応尼(徳川家康の生母お大の方の母)の法名に因み華陽院に改められた。鋳物師町は東海道府中宿の一画に位置し江戸時代の初めに鋳物師が住んでいたことが由来である。
 新谷町 札之辻町 東海道府中宿
 新谷町(しんがいちょう)の町名の由来については江戸時代の地誌「駿河記」に「新谷氏の居宅ありし故に名づく」と記されている。元禄5年(1692)の「駿府町数家数・人数覚帳」によると当時の家数は8軒、人数は75人であった。札之辻町の町名は江戸時代に高札場があったことが由来である。高札とは幕府の法令を庶民に徹底させるために各地域の要所に設置された掲示板である。札之辻町には元禄5年の記録では家数11軒、人数は132人であった。
 久能山東照宮 町奉行
 久能街道は久能海岸で作られた塩をはじめとして海の産物を駿府に運ぶために古代から使われた道である。久能山の頂には江戸幕府を開いた徳川家康が祀られた久能山東照宮がある。江戸時代に東海道を上り下りする大名たちは東海道を離れて久能山にお参りする。幕府に仕えた大名達にとって徳川家康は神様と同じだったと考えられる。駿府の町奉行は老中直属の組織で町政全般の掌握から訴えの裁き、城下の警備や府中宿の管理など様々な町民生活に関わる広範な仕事をしていた。町奉行の配下には与力8人と同心60人がいた。
 酒屋の二階の男性 東海道脇の人形
 駿府は徳川家康が幼い頃人質として過ごした地である。その後今川氏を倒して自分のものにしたが、その隣には戦国武将の武田信玄が控えており、ビクビクしながら治めた場所でもある。晩年は江戸幕府が出来安心して心置きなく住めるようになった。駿府は江戸よりも気候が温暖で住み良かったのではないだろうか。